自分を殺したいほど憎んだことはありますか?
管理人はあります。自分が嫌いで、許せなくて、呪って、どうしようもなくて、絶望して。嫌で嫌で仕方なかった記憶があります。そして今日、2月9日は自分の命日でもあります。
まあ結局死に損なってるんだけどね。ちゃんとした経緯はこちらに書いていますのでこの記事では触れません。
もし、人生に転機というものがあるならば、高架から飛び降りた瞬間が恐らくそうだったのではないかと思います。何が起こったのかは正直よくわからないけど、あの日、あの瞬間に自分は確実に死んで、別の自分が生まれたような、そんな錯覚に陥る。
あの瞬間にそれまでかかえてきた「自分が嫌い」という感情を克服し、今になってその感情の正体に気が付くことができました。そして、その段階に進めた今だからこそ、あの頃の自分に伝えたいと思う言葉があります。今回はそんな記事。
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自分が嫌いすぎて殺したい心理
私が生きることに対して、解決策を見出せなかったのは「自分が嫌いで嫌いで仕方ない」という思いによるものでした。
人生とは、『自分』という器に見合うものを盛り付けていく作業なのだと思っています。
果物ばっかり盛り付けてフルーツバスケットを完成させる人もいれば、その器でお茶をたてる人もいる。はたまたいけばなを始める人もいれば、星の砂を集めて入れる人もいます。同じような器を持っているのに、盛り付けるもので全然印象が異なるというのはとても興味深いですよね。
手元にある器をどう使おうが自分の自由。テーマも予算も決まっていない。自分なりの作品を作る過程を人生と呼ぶのでしょう。
これが管理人が高校生のときに考えた価値観です。未成熟な頭で自分なりに人生という大きなテーマを目の前にしてそんな結論を出しました。
「自分が嫌い」という感情は「自分の器が嫌い」ということです。これは自分の性格、自分の経験などをひっくるめた「自分の人生」が嫌いという意味なのです。
どんなものを飾ろうが、どんなものを詰めようが、結局器が嫌いなのに満足できるものなんか完成するわけがありません。それを自覚してしまうと今やっていることを投げ出したくなってしまうものです。
失敗作が出来上がることが分かっている作品を作り続けることができる人って多分いないと思います。かといって今までの作品をぶち壊して新しいものを一から作っていっても結局「自分」という器で作らなければならないことも、よくよくわかっています。
自分が嫌いな人は、「逃れられない自分」に絶望を見るわけです。
なんでいちいち死のうとするの?メンヘラかよ?という尤もな疑問。
その答えはまさにこれ。決して離別できないものと離別したいと思うこと。環境を変えても、付き合う人を変えても、どこにでも付きまとってくる自分に怯え、ひた隠し、恥ながら生きなければいけない。その義務に耐え切れなくなったとき、人は生への執着を手放すのです。
私の場合、幼い頃より能力的に劣等感ばかり抱いてきました。他の人が苦もなくできることが自分には出来ない。何をしてもうまくやれなかった。他人が何の苦もなくできることに躓いて、立ち止まる度とてつもなく苦しかったし、悲しかった。どれだけ悲しんでも状況が変わるわけではない。そんなことわかっているけれど、それでも感情は常に溢れていました。
そんな「できない」ばかりを自覚しつつ成長した自分が、自分を肯定できるわけもなかったんですよね。
そうこうしている内に、自分が自分であることを呪う大人が一人完成しました。そういう意味では私には「素質」がありました。
まあこの話は別の機会にするとして。
自己嫌悪しまくってどうしようもなかった過去を今振り返ってみて、思うところはたくさんあります。そんな自分に言葉をかけるとすれば、どんな言葉をかけるだろうか。そんなことをたまに考えます。
前置きが長くなったけど、ここから本題。
テーマは「自分が嫌いだった自分に伝えたいこと」。
自分との人間関係を見直す~嫌いな自分と距離を置く~
まず、一番言いたいことは「自分との距離を置け」です。
あなたは他人を嫌いになったことがありますか。あるならば思い返してみてください。
ちょっとした嫌いという感情からトラブルを招いたり、関係を絶ったり。。人と人が円滑にやっていくということは何より難しいことです。互いにストレスを溜め込んでしまい、破綻することもあるでしょう。
星の数ほどある、人間関係が破綻する原因。そのひとつに「人との距離感の測り間違い」があります。
友人関係によくある「親しくなりすぎて」破綻するケースです。知り合って間もない頃は、お互い遠慮しあって、気を遣いあってという関係でした。しかし、親しくなっていくと同時に無遠慮になっていき、小さな言動にいらっとする事態が増えていく。。身に覚えはありませんか?
いらっとした出来事が積み重なっていくと、慢性的な心の動きになります。そして「嫌い」という感情に変わってしまいます。
そこから喧嘩や冷戦に発展するという流れを人間観察を通じて多く見てきました。これは「距離感が近すぎた」ことが原因です。知り合って間もない、気を遣いまくっている状態では成りえなかった事態であり、お互いの対人技能が成熟していないからこそ起きる事態なのです。
まあぶっちゃけよく見るやつですね。
実は「自分が嫌い」という人にもこの現象が起こっています。
「自分とうまく付き合う」という言葉があるように「現実の自分」と「理想の自分」の間にも人間関係が存在しているのです。
「自分が嫌い」という感情はまさに「理想の自分」が「現実の自分」に対して、慢性的にいらっとしている状態です。距離感を誤って、つい相手を苛立たせる友人同士の人間関係と同じような感じですね。
厄介なのは喧嘩しているのがあくまで自分対自分のことなので、物理的に距離を置くことができないところ。
イメージ的には嫌いな人がずっと隣にいるイメージです。「理想の自分」視点では、四六時中いらいらしているわけだし、「現実の自分」視点では常にいらいらしながら正論を吐き続ける人がそばにいる状態。精神衛生上よくないことは誰からしても分かると思います。
そんな状態の自分に対して「距離感を置く」ということはどういうことでしょうか。
それは「理想の自分」に対しては「現実の自分」の能力や、できることを正確に把握させること。「現実の自分」に対しては「理想の自分」までの差異を埋めるための具体的な手段を挙げること。もっとたくさんあるかもしれませんね。
※これに関しては別記事で書く予定です。※
依存しあって、いらいらしあって、許容できない。そんな人間関係を自分に対して課しているなら、「理想の自分」からも「現実の自分」からも距離を置いて、もう一回「自分」について考えてみよう。ということです。
自分を責めることは甘えだった~因果応報なんて嘘だ~
起こったことに対して、自分を責めるのは甘えだ。
この一言を仮に伝えられたとしたら、多分発狂しているんじゃないかと思われるぐらい当時の私にとってこれはキツイ言葉です。けれど、こうしてうつが寛解した今。強く心に留めている価値観がこれ。
当時の私の考え方を述べるなら「原因自分論」。いいことも悪いこともすべて自分に収支する。すべて自分の裁量でほとんどのことは決まると思っていました。だからこそ、起こったことに対して自分を責めたのです。
前工程のミスがあっても自分を責めた。上司に放置されっぱなしなことに対しても自分を責めた。機械のトラブルでも自分を責めた。同僚が仕事をさぼったことによってキャパオーバーしても自分を責めた。
因果応報。そんな言葉を今思えば病的なぐらい信じていた自分がいました。
起こったすべての問題を自分でなんとかしようとしたし、実際なんとかしてきました。
自分にとって残念なことはフォローできる能力があったこと。実際心が壊れるまで一人で引き受けて、仕事をこなしてきました。新卒で、トラブルなんかを抱えながら進められることなんか知れているのに、当時はそんなことすら気が付かないぐらい「自分の足りていない能力」をフォローするので精一杯でした。
やっといろいろ落ち着いてから冷静になって、ふと思いました。
「これって本当に自分が悪いのか?」と。
それに対しても答えは出ています。「そんなことはない」と。
すべてが終わってからやっとこう思えるようになりました。そして、今「自分が頑張ることでなんとかしよう」という意志自体、問題解決を先延ばしにしているだけだということに気が付きました。当時は正しいとしか思えなかったことですが、紛れもない「逃げ」でした。今だからこそ気付けることかもしれないけれど。
あのとき少しでもこのことに気が付けたならうつになる事態は避けられただろうか、と今でも思います。自分が壊れていく様は相当辛かった。そんなタラレバを繰り返してしまうほど、尾を引きます。この季節だけは妙に後ろ向きになってしまうのな。。
自己嫌悪に苦しむ人へ
ちょっとどころではないぐらい後ろ向きの記事になってしまいました。
昨日件の高架を歩きながら「当時の自分に何か伝えられるとしたら、どんな言葉を送るだろう」と考えていたことから、一気にざっと書き上げた記事です。書き終わった今、「過去の自分に対する言葉」ではなく「自分が嫌いすぎてしにたいとタイムリーに思っている人に渡したい言葉」が書きたかったんだと気が付きました。
これを書くことで誰かの役に立つのなら、私としてもうれしい、かな。
今日は夜勤の管理人。仕事前に墓参りにでもいこうかな。
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