鳥頭奮闘記

「3歩で忘れる鳥頭」と称された管理人が送る備忘記録。人生って常に修羅場。

日記を12年間書き続けて得られた3つのこと

「そうだ、日記を書こう」

 

不意にそんなことを思いたったあの日から、干支が丸ごと一周まわった。

 

中学一年生の1月6日。新年早々でなければ、深く考えて結論に至ったわけでもない、そんな決意とも言えぬ思い付きをしてから12年と一ヶ月が過ぎた。

 

毎日ずっと欠かさずに書いてきたわけではない。がっつり空白が開いた期間もありながら、なんだかんだで今もカバンに日記帳代わりのノートを入れている。財布は忘れてもノートは持っているというみょうちくりんな状態になったほど「書く」という行為は自分にとってなければならない行為になった。

 

今回はそんな歪な突き抜け方をしてしまった管理人が12年間日記を書き続けて思った「日記を書くことで得られたこと」を徒然と書いていくだけの記事です。どうぞごゆるりと。

 

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日記を書くことで得られたことその1:自分の感情を自覚できるようになった

まず、他人に言われる変化として、日記を書くようになってからぼんやりしなくなったと評されることが挙げられる。

 

小学生の頃の管理人は、なぜかいつも心ここにあらずな子供だった。

確かにクラスメイトと同じ空間にいたし、人と話したり、遊んだりもしていたのだと思う。けれど、不意に時間が一気に進んだような感覚に陥ることがあった。

何もするでもなく、何を考えるのでもなく、虚空を見つめぼんやりしているらしい。父から「お前はいつもぼーっとしている」と指摘されて、あぁ確かに、と納得していたことを覚えている。

今考えても空白の時間でしかない時間というのが確かにあった。日記を書き始めるまでは。

 

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自問自答を繰り返してやっと気が付いたことだけど、空白だと思っていたときの頭の中はいろんな言葉が飛び交っている状態なのだ。

一滴一滴の水が集まって川ができる。でも川を見たところで「これは一滴の水が集まったもの」ではなく「あぁ川だな」としか思わない。実は感情って一滴一滴の水のような存在なのだと思う。捉えにくくて、気が付いたら流れて見えなくなってしまう。

 

そんな状態だからこそ、感情を正しく認知するのには技術がいる。一つ一つの感情に目を向けることができず「川」として認識していた幼い頃の管理人。父から指摘された「ぼんやりしている」というのは川から感情を捉えることができずに途方に暮れていた状態だったといえる。あんまりこの感覚共有できないかもしれないな。。

 

しかし「川」を「これは一滴の水が集まったもの」だと気が付いてから、自分の中に言葉を探す習慣がついた。自分の頭の中をすいすい行き来する感情を捕まえて「そっか今こんなこと考えてんだな」と自覚するだけでも意識が違った。

 

一滴の水を川から見ること。これが日記を書く意義だ。

 

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「書く」という行為を覚えてから自分に対して「今何を考えてんの?」と問うくせがついた。頭の中のことに実態を与えるに際して、自分が考えていることに注視するようになった。

 

ある出来事に関して、喜びの感情を捕まえたとして「へえ、こういうのが嬉しいんだな」「なんで今嬉しいと思ったのかな」そんな疑問や自覚によって、感情を生じさせる価値観に迫ることができる。結果、自分をより知ることができるのだ。

 

応用して相槌挟んでみたり、理屈っぽい反応を返してみたり、感情的な反論をぶちこんでみたりするといろいろ反響があった。喜びが寂しさになったり、悲しさが幸福感だったり。予想外な感情の反射に対して「なんだこれ?」と思うことが多かった。

内向的な性格のせいか「なんだこれ?」と思ったところを突き詰めていくことそのものが楽しかった。

 

結局、何もせずに思考にふけるという習慣は変わってない。それでも傍から見たら「ばんやりしていると自覚している状態」と「自分の中に言葉を探している状態」は目に見えて違ったようだ。

「ぼんやりしている」と評されることから「なんか考えてるっぽい?」と言われる状態になった。 

 

日記を書くことで得られたことその2:自分の価値観の変化がわかる

次に自分が変化していく様子がよくわかったこと。

 

日記を書くということを続けていくに当たって、書く内容に変化があった。「その日にあったこと、したこと」から「その日に感じたこと、考えたこと」にどんどん内容がシフトしていくのである。

これに関しては前者だとほぼ同じような生活をしている状態だとだたの生活記録になってしまうという理由だ。日記を書く中で自分が飽きないような書き方をしていくと「考え方」や「感じ方」に注視していく形になる。

 

そんな中自分の考えたことを書いていくに当たって、日記は、自分がどういう風に成長しているかが浮き彫りにできるツールであると感じた。

 

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例えば人間関係についての価値観。昔、人間不信になったことがある。

 

その頃の日記には「誰も頼らない」だとか「信用しない」だとかそんな言葉が踊っている。どんなに苦しくとも人に助けを求めてはいけない。どんなに辛くても人に弱みを見せてはいけない。誰も信じない。痛みも悲しみも、苦しさも孤独も、自分の中で全部飲み込んで、ただここにあり続けてやる。今考えれば意地でしかなかった。それでも自分の根本の考え方だった。

 

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月日はながれて今。

 

 

いろんな人との出会いと別れを繰り返し。あれだけ強かった不信の決意は影を潜めている。たくさんの人から言葉をもらい、生き方を教えてもらい、話をした。最近の日記に書かれているのは専ら「管理人の周りの人すげえ!!ありがてえ!!」である。今当時のすさんだ自分とご対面したら冷めた眼差しを向けられるのだと思う。けれど、「自分が接する人で人生が変わる。そしてどんな人と関わるかは自分で選べる」ということに気が付いてから人の見方そのものが変わった。

 

「人が信じられない自分」も「人生周りの人次第と考える自分」もすべて自分。両方ともが自分の中の大事な価値観であり、すべて本音。だからこそ、自分の価値観が、生き方が、哲学が、どう変わっていったかがはっきりわかる道具として、日記は使えると思った。 

 

日記を書くことで得られたことその3:感情を自分で受け止めることができるようになった

 心の整理。これも日記を書くようになってからできるようになったことだ。

 

日々いろいろな経験をしていく中で、起こったことをどんどん処理していくことは簡単なことではない。キャパ量の問題もありはするけれども、誰にだって感情を持て余すことはあると思う。

 

「なんか思ってるんだろうけど、うまくまとまらない」。これが感情を持て余している状態。この状態が続くことは実は結構なストレスになる。

 

「愚痴が言える間は大丈夫」という言葉通り、まだ言葉にできる感情ならば問題ないのだ。愚痴みたいな小規模の爆発で感情を処理していければ大爆発は抑えられる。自分の精神状態がやばいかやばくないかは「モヤモヤした感情を愚痴として出せますか?」という判断基準を採用している管理人です。愚痴すら言えなくなったら本格的にやばいからな。

 

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自分の感情を持て余し、モヤモヤを溜めていった結果、関係ない人にやつあたりしてしまっただとか、病んだとか、自己嫌悪したとか。そういった経験がある人はいるんじゃないか。

 

「確実に抱いている感情はある。でも、それが何なのかよくわからない」この状態は小規模爆発による感情の処理ができないという意味で危険を孕んでいる。

 

人の価値観が複雑になってくればくるほど、そういう心境はよく起きる。喜びなのか悲しみなのかわからないような、たくさんの感情が生じることであればあるほど、その出来事は自分に対して影響力が大きいということ。人間にとって大切なのは、明確に「怒り」だとか「哀しみ」だとかはっきりした感情よりも、捕らえどころのない霧のような感情の方が大事なのだと鳥頭は思います。

 

そんな感情をほどいて、一つ一つ認識することができるツール。それが日記だと思う。

 

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今自分はうれしくて、悲しい。

そんなよくわからない複雑な感情も分解していけばちゃんと捕らえられる。複雑なものをほどいていって一つ一つの感情として認知してしまえば、プラスの感情はそのまま享受し、マイナスの感情は愚痴にできる。

日記に文章として書くことにより、感情を自分で受け止められる形に変えることができるのだ。

 

 

 

以上、日記を12年間書き続けてきて得られたこと、でした。

本当はまだまだあるけど、自分の中で一番変化があるなと思った3つの点をピックアップしてみました。書きながら「やっぱり日々移り変わる心を書き残しておくことって大事だな」と再認識。

大変なことを続けるとどう転んでも大変なんだよね。でも、自分にとってやる意義があると判断したことは勝手に続くんだよな。12年間を振り返って思うことはこんな感じ。12年前は少なくともいつかはやめるんだろうとどこかで思っていただろうし。継続するために継続しているのではなく、意味があるから継続できている。そんなスタンス。

 

この記事読んで「日記っていいかもしれないな」って思ってくれる人がいれば管理人の冥利につきるなー。自分の心をもっと知りたいと思っている人はとりあえず日記をはじめてみてはいかがでしょう。

 

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