このブログは、鳥頭な管理人が右往左往しながら生きる様を少しでも覚えておけるように書いているブログでです。完全な自己満足であり、その人生に名前はまだつけることはできません。
知能にも才能にも恵まれず、ほどほどに運のついている、どこにでも転がっているつまんない人生だけど、少しでも楽しみたいという工夫としてぽちぽちやっているという側面もあったりします。
実際、自分のことを綴っていくことは楽しいし、人の価値観を聞いたりすることも好き。だからこそ、今回迷っています。書きたいけれど、書くべきなのかと。
書きたいと思う意志があるのは本当。けれど、言葉にする責任が大きすぎて。なのに言葉の主である自分が小さすぎて。たかだかちっぽけな話で誰が救われるんだ。リアルでは誰にも言ったことのない話をネット上で晒すことにも随分抵抗がありました。
自分の中で消化して忘れていくことが一番なのだ、とも思います。人を暗い気持ちにさせる可能性がある以上、迂闊に発信するのはいけないと。このブログで綴る言葉は吐き出すためのものではなく、誰かのために綴るものだと思うから。
けれど、自分の思ったこと少しでも言葉に残しておきたい。ちゃんと向き合いたい。本当は墓場まで持っていくはずだった出来事です。でも残すべきだと思ったんです。
今回の記事は閲覧注意して。
- 電通新入社員の自殺 労災認定
- 死にたいぐらい嫌なんだったら辞めればいいのにという意見は根本的にずれてる
- 疲労の弊害~「思考」を「事実」に変形させる極端な思考について~
- 自分の能力に絶望した社畜が死を選ぶまでの過程
- いろいろキャパオーバーしたので自殺してみた
- 一度生きることを放棄した社畜だけど、どうせ生きるならだれかを助けたいと思う
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電通新入社員の自殺 労災認定
まず、今回お亡くなりになったまつりさんに心からご冥福をお祈りいたします。
このニュースの重要な項目として、本人がプライベートでやってたツイッターが大きくこの問題の早期労災認定に関わった、というのがある。恐らく雇用労働者に今後大きな影響を今後与えていくんだろうなと。
今まで裁判とかでメール履歴なんかを用いて判決されるという事態があるけど、ツイッターってのは聞かないような気がします(管理人の学がないだけかもしれませんが)。
これから「できるだけ日常の記録は残しておいた方がいいよなー」なんて風潮になって、自演なんかも横行して、これは事実か事実でないかという水掛け論だったり、企業内での統制が起こって「表現の自由違反ではないか」みたいな議論に発展する流れになってくんだろうな、なんて思ったり思わなかったり。
難しいことはわからないが、お勤めの会社が「業務内容に関係のあることで秘密保持原則以外のことについてSNSへの投稿禁止」とかいい始めたら退職考えた方がいいかもしれませんね。
死にたいぐらい嫌なんだったら辞めればいいのにという意見は根本的にずれてる
さて、そこ話題の渦中であるツイッターにて「死ぬほどに嫌ならなぜ辞めなかった?」だったりとか「電通最低だな」とかいろんな言葉が飛び交っている中でこのニュースは彼女と同じような環境にいる人に対してどんな風に響いているのでしょうか。
これが他の労働者の環境改善につながればいいなと心から思います。
その一方で彼女のような働き方をしている人はこのニュースを見る時間すらなく働いているのかもしれません。もしかしたらこうしている間にも命を絶つ人もいるんじゃないかと思うと心が痛い。。
多分、彼女は「会社を辞めるか、人生を辞めるか」という選択をしたわけではありません。
辞めるとか辞めないとか。そんなことが考えられない精神状態だったのではないかと察します。
自分の選択肢の中にないものは選べない。視野が狭かった、という言葉に収支してしまうけれど、彼女もツイートしているように人間弱っていたら高価な壺も怪しげな置物にも手を出してしまう弱い生き物です。彼女は自分が弱った状態になっていることを頭の片隅でわかっていました。冷静に考えて今の仕事を辞めるべき、ということも恐らくわかっていたのでしょう。
全部言われるまでもなくわかっていてこの結末を選んでしまったんだろう。そう思います。
疲労の弊害~「思考」を「事実」に変形させる極端な思考について~
疲労は判断力を奪います。
「なんであんなことしてしまったんだろう」「もっとこういえばよかった」誰にでもある後悔だと思うけど、疲労しているときこういう事象は相当起こり得ます。
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冷静な判断力を欠いたときに出てくる症状の一つが、極端な思考。
世の中にはいろんな人がいる。いい人も悪い人もいる。それが冷静な判断のできる人の思考です。
一方、極端な思考に陥った人の思考は、「この世に生きている人はほぼ自分に嫌がらせをしてくる」、とか「自分は世界で一番価値のない人間だ」、とかとにかくゼロか100かみたいな思考になる。傍から見てまったく整合性のない思考にどっぷり浸かってしまうわけです。
「自分が死んだほうがみんな助かる」とか「自分なんて幸せになれるわけない」というのも極端な思考の一つ。後から考えれば根拠なんてないことなのに、極端思考になるとこれが思い込みなどではなく動かぬ事実としてせまってくる。
単なる思考が思考を超えて一人歩きをしてしまうわけです。一人歩きをする思考は自らを勝手に成長させて、「事実」という名を借りるものにまで成長します。
この事実(本人からしたらですが)が希死念慮を生みます。希死念慮とは「死にたい欲」だと考えてください。
極端思考に陥ってしまう中で、希死念慮に苛まれてしまうとオフィス街に出てビルを見ると「自殺に適した高さってどのぐらいだろう」と考えてしまう。買い物に出かけ、紐売り場なんかを見てしまうと「首吊れる強度のある紐ってどれ?」ってなってしまう。蛸足配線されてるコンセントを見たら「家庭用コンセントで感電死ってできんのかな」とか思ってしまいます。とにかくめちゃくちゃ危険です。
この頃には本人にも「やばいな自分」、みたいな自覚が生まれてきます。
この状態から脱するために、自ら行動を起こすこともあります。とはいっても冷静な判断力を奪われた極端思考の人間が考えて行動するわけなので、正常の人が思う適切な行動とは大分ズレがあります。
病院にいくとか、人に相談するとか、休職を考えるとか、能動的に動くわけではなく「自殺 前兆」だとか「自殺 理由 弱い」みたいな検索ワードをグーグルに突っ込むぐらいのことで今の自分の状態を冷静に判断しようとします。なぜか人に相談するという選択肢は持ちません。
「冷静(冷静とは言ってない)」みたいな感じ。病院にはなぜかいくという発想もないです。なんか怖い。
よく自殺した人の身内が「相談して欲しかった」とか言いますが、誰かに相談するという判断ができない状況まで行ってしまっている人にはこの選択肢は取れません。相談するということは誰かに事実を打ち明けるということです。これが単なる「悩み」のようなものであれば人に意見を聞いて別の考えを取り入れることもできますが、それが動きようのない「事実」であればどうでしょうか。
「日本は島国」と聞いて誰も否定しないですよね。
「俺、余命2ヶ月なんだー」という宣告された事実はどう足掻いても変えられないわけです。「そっか」としか言うことができないような、返す言葉が見つからない事実を基本的に人は出したがりません。
「自分は無能」とか「役に立たない」とかそんな嘗て概念であったはずのものが、確固たる「事実」となる。否定されず、場当たり的な言葉を返されるぐらいなら、何もいわない方がいい。そうやって人は口を噤むことを選択します。
思考が事実と化したにも関わらず、人に相談できる人は、事実を思考に変える柔軟さを持ちえる人か、プライドのない人かどちらかだと思います。
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この頃には気分転換に友達とご飯行く、とかいう行動はとっくにとれなくなっています。休日は体調も悪くないのに、横になったまま動けません。寝たっきりの状態になります。その状態に本人もイマイチ理由が分からないながらも起き上がれない。そんなおかしな状態になります。人に会う気力はもちろん、散歩に行く気力も残っていません。
それでも、なぜか仕事には死ぬ気でいきます。文字通り「死ぬ気」で。
上記のような状況を「うつ」というらしいです。
冷静な判断力を奪われた人で多くの人が発祥していて、自殺する人の9割がうつだといわれています。
極端思考→希死念慮→無気力・寝たきり→ 異常に気付く→止められない。
ちなみに上記の極端思考から異常に気付くまでの流れはすべて過去に管理人に起こっていたものです。
自分の能力に絶望した社畜が死を選ぶまでの過程
先に言っておきますが、管理人の働いている会社はブラックではありません。残業ほとんどないし。休日もちゃんとあるし。給料は確かに安いけれども、プライベートの時間をしっかり持てる会社です。
だから、今振り返ってみて、ほんとにただの「甘え」なんだろうなと思うところも実は、あります。上司に放置プレイはされていたけど、まつりさんのようにパワハラうけてたわけでもないし。
言うなれば、タイミングと噛み合わせが悪かった。そう考えることにしています。
同じ仕事の担当がいつも私に仕事を押し付けてくるような輩でした。それは当時から半年以上前に配属されたときからそうであって、あのときも今更どうこういうことでもないと思っていました。
あのとき、仕事で使う機械の調子が悪かったんです。そのときがたまたま繁忙期で、時間的にぎりぎりで作業していました。
残業しないために休憩いけないことはあったけど、納期の方が大事だし、今作業止めてしまっても交代してくれる人はいないし、こんな状況放置して休憩しても絶対休まらないし。上司は「休憩行けよ」と言ってくれていたけども、休憩行ったら納期守れないけどいいのかよと内心悪態を吐きながら作業をしていました。それでも、いつものことでした。
一年で一番忙しい、年末の繁忙期でした。たった半月ぐらいの期間でしたが、一切気を抜けない時期を過ごしました。
基本的にいつも暇な職場で、新卒一年目のはじめての繁忙期。
機械のトラブルというハプニングを抱えて、すべての仕事をこなすには、少し自分が未熟だったのでしょう。
年始に入って次々出てくる自分の仕事に対して入ってくるクレーム。なんで気がつかなかったのかと思うようなミスが多々あって、愕然としたのを覚えています。これに気がつかなかったのか。なんでこういう解釈で作業を進めていたのか。なぜか全然わかりませんでした。
「発達障害疑惑」
何回か自分に対して立ち上ったこの話題。今までは「そんなことない。あっても全然大したことないレベル」だと思っていたのですが、はじめて「そうなのかもしれない」と考えてしまいました。
それでも、「ちゃんと対応やりきらないと」と自責と後悔と責任感を以て、上司からミスに対するヒヤリングを受けた。自分では誠心誠意応えたつもりです。
その中で上司が「同僚が仕事を押し付けてくることで私が忙殺されている状況」について把握していないことに気がつきました。
その仕事場では、行った作業に関して一つ一つ記録を取っています。月の終わりに集計し、誰がどれだけ作業をこなしたかが一目で分かるようにして部署全体に周知します。
毎月、自分で作業日報を集計して提出していたから、数字でそれがあからさまになっていることはわかっていました。私が7割の作業をこなしているにも関わらず、上司は「みんなで同じぐらいずつ作業を分担している。その中でお前だけミスが多い」と思っているようでした。
作業の偏り、さぼりの皺寄せ。休憩に行きたくても行けない現状。
そのことを上司に言及する気も起こりませんでした。忙しいとかに関わらず、ミスはミスだし。やらかしたのは自分だし。その現状が間接的な原因であっても、直接的な原因が自分である以上、それを言い出すのは筋違い。そう言われるのがオチでした。
上司に対して、別に今更何かを期待しているわけではありませんでしたが、なんだかなぁという気持ち悪さだけが残りました。
いろいろキャパオーバーしたので自殺してみた
そんないろいろなモヤモヤをかかえる最中、またミスを出しました。
大して忙しくもない時期、今度は本当に自分のうっかりミスでした。
「仕事に集中していなかったせいだろうか」とはもう考えられなくなっていました。
自分の能力のなさが、スペックの低さが、すべてこのミスに集約されているのではないか、結局忙殺されているのも、仕事を押し付けられてキャパオーバーするのも、上司から見てもらえないのも、すべて自分の能力のなさではないかと思いました。
疲れていた、のだと思う。
顔が暗いと心配してくれる同期がいたけど、吐き出すことができませんでした。
そのときは自分が何に疲れているのか、何が辛いのか。そもそも本当に辛いのか、大して辛くないのか、わからなくなっていました。
疲れていた、んだな。休めば治ったのかな。
「その日」は唐突にやってきました。
仕事でげんなりしている日でした。ぶっちゃけ何かがあったのかもしれないが覚えていませんが、この辺りで、なぜか他部署の上司にけちょんけちょんに怒られた記憶があるからその日だったかもしれません。
とにかく職場から歩いて帰るその足が鉛のように重たかったことだけを鮮明に覚えています。とにかく指一本動かすのも億劫な状態で、体を引きずるように帰宅していました。
そんなほうほうの状態で、家の近くの高架を歩いていたときです。
「ここから落ちれば死ぬんだろうか」。
足が止まりました。
希死念慮というのはTPOをわきまえているようで弁えていないから困りますよね。
ここでこの思考に浸ることが危険だとわかっていながら振り切ることができませんでした。振り切る気力も体力も残っていませんでした。
「結局、社会に出た以上これから死ぬまで働き続ける人生を送るんだな。自分に能力があればもっと人生楽しかっただろうか。できる人ならば自分にもっと希望をもてただろうか。わからない。多分、わかる日なんてこないだろう。自分は持たざる者なんだから。モウイインジャナイカ。」
「結局、今の仕事やめたって、自分からは逃げられない。自分から逃げられない以上、次の職場でも同じことを繰り返す。環境が変わることで変化するのは自分ではなく、自分の能力のなさで迷惑を被る周りの人だ。今まだこの会社しか経験していないんだから、被害は最小限。これ以上被害広げたくないな。モウイインジャナイカ。」
「人なんて社会の一部として働いて、税金納めて、用がなくなれば死はすぐそこだ。みんな社会っていう企業の社蓄だ。変に結婚して子供が生まれたりしたら多分この檻から自ら出ることは適わない。いくなら今が一番楽だよな。モウイインジャナイカ。」
「中学の時の授業だったか『本当は行きたかった命がいっぱいあったその中から貴方は選ばれて生を得た』みたいな宗教染みた話を聞く機会があった。今になってあれって逆なんじゃないかと思う。みんながやりたいと思うはずのものならばこんなにしんどいはずがない。ならばこの世界に生れ落ちたこと自体、罰ゲームかなんかじゃないのか。アダムとイブの話ってこういうことなんじゃなかったか。だから、モウイインジャナイカ。」
「モウイインジャナイカ。モウイインジャナイカ。モウイインジャナイカ。モウイインジャナイカ。モウイインジャナイカ。モウイインジャナイカ。モウイインジャナイカ。」
人が死にたくなるのは、耐えられないほど辛いことがあった時じゃない。
未来に希望が見出せなくなった時だ。
「もういいや」
大して高さを確認せず、高架を飛び降りた。それまで鉛のようだった足が良く動いたなと自分で驚いた。躊躇ったら怖くなるから、脇目も振らず、ただ飛んだ。
あ、ありのままそのとき起こったことを話すぜ?w
その高架、意外と高さがなかったんだよ、大体二階建の窓ぐらいの高さな。そこから落ちたんだが、言ってもなかなかの高さではある。人なんて脆いもの、椅子から落ちても打ち所が悪けりゃ死ぬからな。で、だ。その数瞬後。管理人の野郎、綺麗に着地してやんの。ストッって。体操選手が最後の着地決めるみたいに、ストッてwwww
人生かけてギャグやらかした気分だよあたしゃ。
結果的に、死ねなかった。つま先をちょっとだけ怪我しただけで他は無傷。目撃者もなし。自分が高架の上から下に移動しただけで、周りは一秒前と同じような静かな夜が広がっていた。
思わず、笑ってしまった。
自分では死ぬことすらできなかったんだって。何もできないとき人は笑ってしまうんだと知った。泣きながら、狂ったように笑っていた。笑うも泣くのも、久しぶりだった。
一度生きることを放棄した社畜だけど、どうせ生きるならだれかを助けたいと思う
まつりさんが最後のツイートを残してから、命日であるクリスマスまでどのように過ごしたかはわかりません。
けれど最終的に「辛いから死ぬ」とか「辛いから辞める」とかそういう境地じゃなかったと察します。
それは一種の病気であって、意思でどうこうできる問題ではなかったのだと。
ちなみに管理人は現在ちゃんと生きてます。
結局あの日確かに自分は死んだ。そう思うと自分に対する絶望も、恨みつらみもどうでもよくなりました。
あの日、自分に何が起こったか正直よくわかりません。さっき『そのときは自分が何に疲れているのか、何が辛いのか。そもそも本当に辛いのか、大して辛くないのか、わからなくなっていた。』とか書いてるけど、ほんというと今もそれがわからない。
そういう意味では自分はまだ狂ったままなのかもしれません。
ゆで卵が何をしても、生卵に戻れないように、一度狂った思考はもうもとには戻らないのかもしれません。少なくともたまに自分の思考の狂気を自覚できます。やっぱり自分はどこかおかしいと思いながら、生きています。
それでも、私は今、生きているんです。
生きることを選んだことをまた後悔するかもしれません。
もっと辛いことがこの先にも待っているかもしれない。それはなんとなくわかっています。
それでも、生きる。今のところは。
同じように思う人に少しでもできることがあればいいと思ってカウンセリングの資格もとってみました。同じような思いを抱える人と自分を重ね合わせてなんとか助けられないだろうか。。そんなことをよく考えたりしています。多分、管理人のような人ってそこそこいると思うんですよね。
同時に誰かを助けたいと思う人の数も自分が思っているより多いんじゃないかと最近考えています。あの当時なら考えもしなかったことですが。
生きることが辛いことだと、ほんの少しだけ私も知りました。
だから「生きなきゃいけないよ」なんて言えません。どの口がと自分でツッコミが入るのが関の山です。
死にたいほど悩む人にかける言葉が今もわからない。知れば知るほど私は言葉を失っていく。そんなものかもしれません。
まつりさんと同じような状況下にいる人たちへ、自分ができることはないのかもしれない。けれど、もし自分が疲れているのかもしれないと思うなら、ほんの少し立ち止まってみてほしい。休むことを肯定してほしい。
gdgd書いたけど結局それだけが書きたかっただけの記事。お目汚し失礼しました。
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