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鳥頭奮闘記

「3歩で忘れる鳥頭」と称された管理人が送る備忘記録。人生って常に修羅場。

宗教観から自分を知る方法

 仏教について学んだので、自分の宗教観をつらつら書きなぐっただけの記事。

www.abaretoriatama.com

 

管理人は特定の宗教を信仰していない。クリスマスも楽しむし、墓とか神社とか混在することになんの違和感も感じない、無宗教国家といわれる日本国民の平均的なところにいると思ってる。宗教への偏見も正直ある。

そんな管理人が改めて仏教について学んでみた(上記記事参照)。知らなかったことを知っていく中で自分の宗教感というものが少し変わったのかなと思う。今回書くのはそんな内容。

 

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信じることは難しくて怖いこと。

管理人が抱いていた宗教に関すイメージは二つ。「気味が悪い」「めんどくさそう」。いずれもネガティブなものだった。

 

「気味が悪い」というイメージについては宗教そのものへのイメージと「信仰すること」への偏見である。

信じるという行為にはリスクを伴う。裏切られる可能性や期待通りでない結果に行き着く可能性、失敗に巻き込まれる可能性。信じるという行為はうまくいかない様々な可能性を全部考慮した上でそれでも私は受け入れますよ、というある種の覚悟が伴うものだと思っている。この人になら裏切られても構わない、そんな覚悟を持って人は人を信じている。だから信用を集める人や企業って率直にすごいと思うし、信頼される人になるという目標を持って頑張っている人に敬意を抱く。

 

だからこそ、自分の軸を宗教とする信者ってのがよくわからなかった。こちらから見れば信じられる位置にない御伽草子のような伝承や、行動を制限されるような教えを湛える宗教に生きる理由や行動の理由を見出す人に、のめり込めるの理由となるものを感じなかったことも気味の悪さの理由だった。

なんでその宗教を信仰してんの?って質問しても、幸せになれるからですという噛み合わない回答が返ってきそうな思考の偏り。質問者と回答者の手段と目的が大きくずれることで成立さえしない会話。信じる理由なしに信仰できることも、幸せになれるという因果のわからないところからぽっと出してきたその結論もわからない。

 

信じるってそんな簡単なことじゃないよね?という前提の思考を持つ人間からして、自分の行動の理由をすべて委ねることも、信じる理由も疑う余地もゼロという態度も、理解できなかった。違和感を通り越した結果感じたのが気味の悪さだ。

 

 

矛盾するから。わからないから。めんどくさい

「めんどくさそう」というイメージに関しては仏教に対するイメージだ。

個人的にどこの宗教にも属さない美空であるけれど、一応仏教国として地域の行事なんかに参加する機会はあった。日本史の授業でも仏教による統治がされていたこと、制圧され、優遇されという極端な扱いをされてきた歴史を学んだ。聖徳太子が「和を持ってなんちゃらかんちゃら」から始まる十七条のお約束集を作ったことも、織田信長一向一揆に対して武力を行使したことも小学校で習った。一番身近にあった宗教だからこそ、得られた印象は「ようわからん」だった。

 

「和」ってなによ。これで国を統治すんの?この意味のわからない文書で?武力以て弾圧されるっておまいら何したの。中東の宗教かよ、テロ組織かよ。「和」の概念どこいった。

12歳でひたすら教科書にツッコミを入れまくるという矛盾だらけでわからないところだらけの宗教に不干渉の態度をとることになんの躊躇いもなかった。矛盾するものは基本面倒だ。めんどくさいものには関わらないのが一番だとその姿勢を選んだことを否定する気には、今もなれない。 

 

 

この本を手にとった管理人が感じていたことだ。読み終わった今、この考え方は少しだけそのままで、少しだけ変わった。

 

 

仏教で本当に教えていること~非リアのススメ~

 まず、仏教自体への理解から妙な偏見が減った。

 

本書を読んで思ったこととして。

苦というのは、一例では現代で言えば「リア充」を目指すことなんだろう。モテたいという願望そのままにアプローチしてふられて、付き合えたと思ったらふられて。その道は相当に苦しい。でも一時でも味わった甘美な幸せをもう一回味わいたいからこそ、同じ道を辿る。それを永久に繰り返すことが輪廻であり、それこそが苦なのかなと思う。

 

そんな中、仏教は「非リアでもいいじゃん」ってことを提案した思想だ。リア充を皆が本能的に目指す中で世の中の風潮に真っ向から対抗する生き方、それがブッダの生き方。そう思えば、現代本屋さんに平積みしてある奇抜なタイトルの自己啓発本と、仏教。実は大した違いはないんじゃないだろうか。

 

本屋さんにある「非リアでもいいじゃないか」みたいなタイトルの本と、仏教の違いってなんだ?なぜ仏教はこれほど長期間受け継がれるほどの力を持てたのか。

 

これはブッダが「語らなかったこと」に答えがあるような気がしている。

苦から逃れたい人々はブッダに様々なことを聞きにいった。それに対してブッダは回答を行う。しかしその中でブッダが敢えて解答しない問いがあった。どんな問いだったかは「だから仏教はおもしろい」の本文中に書いてあるので省くけれども、そもそも質問がおかしい問いはカテゴリーエラーとしてブッダは解答しなかったそうだ。

 

カスタムされる思想~宗教と自己啓発の違い~

ここからは憶測が混じるけど。答えを得られなかった人々は、仏教の経典に立ち返り、これがカテゴリーエラーにあたる問いであり、それがブッダが解答しなかった理由なのだと気付いただろうか。

 

どうしても答えのほしい問いならば、人は納得するまで答えを探す。答えてもらえない問いならば自分で考え続ける。ブッダが涅槃に入ってもそれは続いた。ブッダが答えなかったのは、この答えを自分で探す必要があるからだとか理由をつけて。

 

そんな中、結論に至るものが出てきたのだ。恐らく長い年月をかけて出来たその結論はブッダの経典からは矛盾が生じるものだったのだが、それは意図をもってブッダが答えなかった問いだ。「あの時ブッダはこういう理由で答えなかった、これが答えなはずだ」そうやって適当に言葉で補って、自分の考えとブッダの考えの差異を認知するのではなく、ブッダと一致しているはずだと確信を持って。

 

 それが宗派間で矛盾や差異を生んだ。だから日本にもこれだけの仏教の宗派があるのかなと。考える余地を残した宗教は、仏教にせよキリスト教にせよ、カスタムされ枝分かれする。自分好みの解釈、その時代の人々が需要した解釈。そのときそのときに様々な解釈を行ったこと。おそらくそれが宗教というものが長く続く理由なんではないかなと。

 

ぼんやりとそんなことを考えながら本を読み進めていった。

 

必要なものだから受け継がれてきたんだ。正しいかなんて誰がきめるのさ

そんな仏教の歴史を、現代の言葉を使って説明する筆者様。その仏教徒ですらないと言い切ってしまい、極力主観的立場を感じされないように解説する姿勢に安堵感のような何かを感じた。

 

その時代に生きる人達が必要としたから、仏教が枝分かれしたのだ。それは良い悪いでとやかくいうことではなく、その時代の人たちが生きるために必要な思想だったから広まった。そして、それからの時代も必要とし続ける人がいたから現代まで残った。それだけの話。ブッダの教えからして差異があるのかすら知らないけど、長い歴史の中でその宗派が多くの人を救ってきたのは事実だ。それを外部から「間違ってんよ、その宗教」って言われた日には宗教論争開戦。

 

グローバル社会では、ある程度の自己主張は必要。けれど、絶対的なものがあると信じることや、排他的になることは各個人思想が飛び交う現代では危険だ。宗教戦争の口実は「正しい」ことをお互いが主張し合うことだったりする。

 

だからこそ、どんな歴史にも目くじら立てることなく「それだけのこと」だと解説していらっしゃる筆者様に安堵感を感じたのだと思う。どうやらこの本を読み進めたところで仏教信者にはなりそうもないと。

 

苦しいとき助けてくれた、それが信仰の理由

そしてかつて抱いていた宗教に対する「気味の悪さ」に対する答えも少し言語化できた気がする。

信者とは、その宗教に対して無類の信頼をおく人だ。その信頼がどこから派生しているのかわからなかった。だから気味が悪かった。しかし「なんで人は宗教を信仰するのだろう」この問いに答えはあった。

 

人が絶対的な信頼を置くのは、どんな人だろうか。それは、過去に自分を救ってくれた人ではないか。

 

なんでその宗教を信じているのかという問いに対して、自分では「こういう考え方は生きる上で大事だと思った」というような答えが返ってくると思っていた。

けれど、人が本当に自分の人生かけて信じたいと思うのは、一番苦しいときに助けてくれた、というようなその人だけの過去に由来するものではないか。

だから返ってくるのが「幸せになれるから」という現在の状態に焦点を当てた答えなのだろう。現在の自分の幸せは過去に苦しみから救われた経験があるからで、現在の幸せの理由はその宗教。開祖がどんな言葉を発するかということや、伝説のような小話は意外とどうでもいいことなのかもしれない。

 

宗教観は自分を写す鏡

 自分の宗教観について考えることは、自分がどんな姿勢で生きていきたいかということを考えることでもあると思う。

日本人の特製上、宗教のイメージそのものに畏怖とか気味の悪さとかを抱くことがよくある。でも管理人の場合、気味が悪いと感じたのは、人生を自分の意思以外のものに支配されることに関して嫌悪を抱いたのだ。めんどくさいと感じるのも宗教そのものに対する印象ではなく、矛盾する行動や考え方を押し付けられることに対して嫌悪したのかなと思う。

結局、自分で自分のことを考えたい、揺らぎやすい太刀だからこそ自分をちゃんと持たなきゃいけない。そんな気持ちがそのまま宗教観に反映しているのではないかと感じる。

 

 最近思う。自分を知るということは海の深さを測るようなものなんだろうって。

 

音波の反射によって海の深さは計測される。それと同じように何かしらの刺激に対して反射してくる感情がある。ちゃんと知識を得たり、アプローチすることによってやっと本当の自分がわかる。宗教という、わかりやすい反射板を使って自分を知ることは、らしく生きていくために必要なのかもしれない。

 

あなたは「宗教」に対して、どんな印象を抱きますか?

 

これはあなたがどんな風に生きたいか教えてくれる問いになるかもしれない。

 

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