鳥頭奮闘記

「3歩で忘れる鳥頭」と称された管理人が送る備忘記録。人生って常に修羅場。

選択肢を増やした結果「自由」の呪縛に囚われた話

 

布団干そうと意気込んだ次の瞬間に雨が降ってくる呪いにかかってます。

どうも鳥頭です。

社畜やってると時間の制約があって面倒ですね。洗濯物取り込む時間や、天気や、予定やといろんなものを気にしながらやっていかないといけませんし。

家事ややりたいことは、その合間合間に効率よく・・・。そんな風に考えているからにわか雨に邪魔されるのかもしれません。人生予定通りにはいかないよと(雨女なだけかもだけど)。 

 

それでももう少し「自由」に生きたいな、なんて思う今日この頃です。とはいってもたくさん選択肢があっても困るんですよね。これしかないっていう状況と、どれがいいのかわからないって状況って、同じくらい困るんじゃないかと最近思います。

 

今回は「選択」と「自由」について。ゆっくりしていってね。

 

 

 

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選択肢を増やせば大丈夫だと思ってた

「どうして勉強しなきゃいけないの?」

例えば小学生の子どもが、あなたにこんな質問をしてきたとします。 

あなたは何と返答しますか?

 

「将来、なりたいと思った職業に就けるように」

「なりたいと思った時点で、学力でその夢を諦めなくてもいいように」

 

もしかしたら、こんな返答を思い浮かべる人もいるかもしれませんね。

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この会話は、幼少の頃の鳥頭と、父親との間で実際にあったやりとりです。

改めて見直すとよくある「勉強イヤイヤ期の子ども」と「それをうまくやり過ごそうとする親」の構図ですね。しかし、その返答に妙に納得したことを覚えています。

 

例えば、医者や弁護士など、学力を求められる職業を夢みた時、学校の成績表を見て「たとえ空から槍が降っても無理でしょこれは」と思わなくてもいいように。夢を叶えられる布石を一つでも多く持つために勉強はしておけ。

 

よくわかる理屈です。子ども心にすとんと腑に落ちたのを覚えています。

 

選択肢を自分で狭めないように。

将来にちゃんと選べるように。

 

決して出来のいい頭ではなかったけれど、努力は人並みにやってこれたと思います。その根幹には、いつも父の言葉がありました。

それは努力する理由であり、苦しくなった時、拠り所にする哲学でもありました。自分の理性を育て、考え方の土台となる人格形成の材料ともなっていました。

 

そして、いつしかそれは「呪い」になりました。

 

選択肢を増やすこと。自由を未来に残すこと。

目的と手段が曖昧になり、呪われたように選択肢を増やすばかりで「選ぶ」ことができない。そんな人間になっていたのです。

 

 

選べない〜選択肢を増やし続けた結果〜

はじめてそれに直面したのは就職活動でした。

 

増やしてきたたくさんの選択肢。それが重量を伴って一気に自分に差し迫ってきたのです。さあ、選ぶがいい、と。

 

激困困惑鳥頭()。

 

胸中は「え、選ばなきゃいけないの?!まじで?!?!?!?!」でした。本当になんで動揺するのか。

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未来の自由のために。 

 

そうして努力し、守ってきたものが、自分に牙をむいた気がしました。

様々な選択肢や未来を見る中で、いっそ「誰かが、自分の歩くべき道を強制的に選んでくれないだろうか」なんて思ったりもしました。それだけ選ぶことがしんどかったんですよね。。

 

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最終的に一般企業に就職はできました。しかし、それは自分の用意した「選択肢」に答えるような結論ではなく「とりあえず」で進んだ道でした。

 

そこでも選びきれたと言えない未来を、また選択肢を増やしながら、歩いて行きました。業務をこなしながらとった簿記の資格やITパスポート、Webやカウンセラーの勉強だってそうでした。

 

いつまで「潰しが利くように」やっているつもりだ。いつまで選択肢ばかり増やしているつもりだ。いつ選ぶんだ。

どこかでずっとそう思っているのに、「選択を避けること」をどうしても辞められない。

 

結局「あの時」選べなかった自分から目を逸らし、ずっと同じことを繰り返してきました。

 

 

怖くて選べなかった自分と向き合ってみた

やってきた努力は、「未来の自由」のためでした。

未来の自分が選べるように、未来の自分が何にでもなれるように。

 

それはいつの間にか現状から逃れるための言い訳になっていきました。

つまらない仕事をしていても、それに明け暮れる自分を「私はまだ選んでないんだから!!本気出したらこんなもんじゃないんだから!!」って。

 

結論の先延ばしは、精神衛生上良いと思います。

 

だって「今」の問題に直接向き合わずに済むんだから。

 

だって、上司に叱られて落ち込んでいる時も「いいさ、こんな仕事いつか辞めて、もっといい職場に転職するもんね!!!」って、未来の可能性にかまけていられるんですよ。

だって「今はこんな話のわからない人たちと一緒に仕事しているけど、自分は本来こんなところにいるはずの人間じゃないんだから、話が合わないで当然だよね!!」って特に根拠がないのに、そう自分に言い聞かせて現実逃避できるんですよ。

周りがレベル低すぎるパターンも確かにあると思うけど、自身がガチ底辺の可能性だってあるわけなんですけどね。

 

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未来に自由を残すことは保険なんです。

いざって時に自分を追い込まないようにする手段として、適切だと思います。管理人は何もそこから否定したいわけではありません。

 

けれど、未来の自由に依存してしまい、選ぶことが怖くなったら、それはただの逃避行動だと思うんです。選びとって、歩き出すための勇気がなかっただけ。

過去の自分を思い出すと、まさにそんな感じ。選ぶべき場所でちゃんと選ばなかったツケである「今」を言い訳にしかしていないんだから。 

 

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まとめ

この記事は自分への戒めとして書いています。

 

選択肢を増やしまくった結果、選び取ることを恐れ、現状と向き合わなくなった自分への戒めです。そして「自由」の意味を履き違えた自分への戒め。同じことを繰り返さないために、言い訳を作って逃げないようにするための戒め。

 

「自由」なんて大きい概念、絶対一枚岩なはずないのにね。

選択肢を増やすことが「自由」なんじゃなくて、他から拘束や制約を受けないを「自由」っていうのでしょう。だったら、今の管理人は「自由」を論ずるには早すぎる気がします。

 

「何でも選べる=自由」ってわけではなくて、あくまで選んだあとのやり方として「自由」があるのかな、と今は思います。この数日「自由」について考え抜いたので、その話もまたできればいいな。

 

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