以前、こんな記事を書きました。
左右盲の一人として、左右盲の人から見た世界を書いた記事です。
「感覚として左右が理解できない」「ちょっと考えたり、思い出したりすることで左右を認識している」的なことを書いた記事です。このブログ最大級の反応を頂いた記事でもあります。
この記事のコメントを読んでいて思うことがあったので、それをつらつら書いていきます。
- 「わからない」を共有したかっただけの話
- 「わかる」人に「わからない」を共有するのは難しい
- 「わかる」を共有するのは押し付け。「わからない」こともあるのだと認めて欲しいだけなんだけどさ
- 「理解する」とは「わからない」ことを認めること
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「わからない」を共有したかっただけの話
上記の記事の本質は「わからない」を共有することです。
左右盲な鳥頭の経験から、左右がわからない人の世界を書いただけの記事。それ以下でもそれ以上でもありません。単にマイナーな症状として、自分が伝えられることを書きました。
そんな中、頂いたコメントに、左右の認識方法を書いている人が多く見受けられました。たとえば「左右って横書きにしたとき、左に来るのが左な」みたいな感じで。
ああ、こんな認識があるのだと感心する一方で、なんとなくコレジャナイ感を抱いていた鳥頭です。別に左右の認識材料の話なんてしてないし。触れているとしても、「管理人は小学校の教室の間取りを反芻することで左右を認識しているよ」ぐらいなことだったと思います。
別にこれが左右と横書きにしたものであっても、教室の間取りでも、最終的に左右が判断できればなんでもいいわけです。逆にいえば、左右の認識材料なんて求めてないし。教室を反芻するので何の不自由もしていないし。。
それらのコメントに対し「的外れだ」と。そう思わざるを得ませんでした。
「わかる」人に「わからない」を共有するのは難しい
それらを含むコメント読みつつ、一番強く思ったのは「わからないことを共有することの難しさ」でした。
左右が当たり前のように認識できている人からしたら、左右盲はさぞかし不可解な症状だと思います。なんでわからんの?的なコメントもたくさん頂きましたからね。改めて「普通の人ってまじで上下と同じぐらいの感覚で左右がわかるのか・・・」と愕然ともしました。
それと同時に「わからない」という感覚は決して共有することができないものであることを確信しました。
「わからないこと」は悪いことであり、撲滅するべきこと。
そんな暗黙の了解があります。
その一例が学校教育ですね。
わかる人である先生が、わからない人である生徒に「わかる」を共有する場所。それが学校です。仕事や部活などでも、わかる人が「わかる」を共有し、「わからない」をなくすことをよしとしてきました。
わからない状態は忌むべきもので、みんなわかる人になることを目指す。
当たり前のことなのだと思います。
でも、教えるだけではわからない、感覚とか経験とか、そういった壁を隔てるものも実はあるんですよね。この記事でいう「左右がわからない」という些細なことであったり、じっとしていることが苦手な多動性の子供であったり、何でもないようなことに拒否反応を示してしまう人であったり。内容は様々ですが「わかる」を共有が不可能なケースは存在します。
「わかる」を共有するのは押し付け。「わからない」こともあるのだと認めて欲しいだけなんだけどさ
左右の認識材料に関するコメントをしてくれた人たちの意図はこちらからは想像するしかありませんが、恐らく無意識に「わかる」を共有することで、「わからない」管理人を助けようとしてくれたのかもしれません。刷り込みに近いレベルで暗黙の了解になっていることなので、そんなつもりはねーよ!!とつっこまれるかもしれませんが。
けれど 、管理人の望んだことってそういうリアクションではなかったんですよね。単に、そんな症状もあるんだな~と知ってくれればそれでよかったし、あわよくば、左右がわからないなりにもう少し楽にやっていくことができればいうことなし。すなわち、認めてもらえればそれでよかったんです。
よくありますよね。
発達障害の子供を持つ親御さんが「この子はこんなことは苦手、こんなことはできない。それは障害のせいだから仕方ない。理解して欲しい」みたいなこというの。「わかってほしい」とは言わないんですよね。あくまで「理解」なんですよね。
あれに近い心境なのかもしれません。
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これは「わかる」を共有することができない、感覚の担う範囲のことです。感覚が共有されないものである限り「じっとしてられないってどういうこと?それって甘えじゃないの?」って言われることがあるわけです。
これは何の苦もなく「じっとしている」ことができた人だからこそ、「じっとしていることが難しいと考える人」が理解できないんですよね。
人は自分が感覚として理解できることしかわからない。そんな前提があります。口に出すまでもないような、至極当然のことですけどね。
左右盲を理解できるのは、同じ左右盲の人だけ。
じっとしていることが難しいのが理解できるのも、じっとしているのが苦痛な人だけ。
それらを自分の感覚に落とし込んで理解しようとすると「甘えじゃなの?」的な結論に落ち着いてしまうのでしょう。
だったら理解なんていらない。共感なんていらない。「わからない」なら「わからない」ままでもいい。無理矢理「わかる」を共有しようとしないでほしい。そんなことを思ってしまうんですよね。。
「理解する」とは「わからない」ことを認めること
「理解しようと努める」と言えば聞こえはいいかもしれません。
でも感覚的なものから全部理解しようとすることは、不可能です。「わかる」人と「わからない」人の間には、絶対に埋まらない溝があります。それを越えることなどできません。「わかる」を共有することはただの押しつけになり、「わからない」を共有することも、相手に疑問を残すだけ。
自分が認識していることしか、人は理解できないものです。
よく障害に理解を!みたいなことを言う人は、本当は「わかる」状態を拡散するというよりも、「わからない」を「わからない」まま認めてほしいのかもしれません。知った上で、「ふーん」と言ってもらえればそれでいいのかもしれません。
そんなことを書きながらも、逆の立場だったら「えー!なんでわからんの?!」とか言ってそうな鳥頭なんですけどね。人との違いは楽しむものであって、人を傷つけるための道具ではない。振りかざすものにも、押し付けるものにもしないように注意したいと改めて肝に銘じた鳥頭でした。
gdgdした記事になりましたが、何かしらの気付きを提供できたのなら幸いです。
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