就活を控えた大学生の知り合いがいます。
この間ばったり会って話した際に彼女は言いました。「チームで一つのことを成し遂げる仕事がしたい!」らしいです。
そのキラキラ感といったら、鳥頭のような「ヒトコワイヨ」人間には直視できない眩しさです。目が、目があああ。
話す中で彼女がこんなことを言いました。
「人の助けになることが一番仕事っていえるんじゃね?それって提供する方と消費する方だけじゃなくって従業員同士でも同じじゃね?私は人の役に立ってる実感ができる仕事がしたいっぽい」
要は人の役に立っているという実感がそのまま満足感に繋がるから、それが見える仕事を選びたいというわけですね。サービスを提供する立場からだけでなく、提供する立場同士でもその実感を求めたいと。
そのために、より満足感を得るために職場内部でも人の繋がりが密になっている職場を求めている。そんなところだと思います。
ただ言っている内容に関しては一社会人として「うむむ?」と思うことが多かったので、今回のテーマは「社会人になってから思う、チームプレイとは何か」です。ゆっくりしていてね。
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なぜチームをつくって働くのか
要は彼女の目的は、働くことで「協調している実感」を得ることです。
その方法として「チームで一つのことを成し遂げる」という軸を見出したのだと思います。
それがなぜか「チームとは何か」という概念をすっとばしているように感じました。
完全に分断して考えられるものではないものの、ある程度線は引けるんじゃないかと思う概念です。まず、考えるべきは「チーム」って何たるものか、というです。
今の仕事ってほとんどがチーム主体で動くような仕組みが取られています。ガチガチの個人主義の営業職でもほうれんそうを行う対象がいます。言ってしまえば会社自体ひとつのチーム。チームで全く働かない職場を探すほうが今は難しいと思います。
なぜそうやってチームを形成する必要があるのか。理由は二つです。
一つ目は、人材の育成。上司・先輩には人を育てる能力を、部下・後輩には戦力になれる能力を期待していることにより、前者と後者をまとめてやってしまうわけです。
二つ目は、成果の問題。チーム戦の方が大きな成果を出せるからという理由です。今回の記事の本題はこっちです。
フットワークが優れている人がいたり、人と話すことが好きな人がいたり、細かい仕事が苦手な人がいたり、判断力が欠けている人がいたり、すぐパニック起こす人間がいたり。鳥頭な輩がいたり。。
いいところが先行する場合はよしとして、問題は足りていない部分。たとえば判断力のない人が判断を委ねられる場所が必要です。判断力はあるけれど、細かい仕事が苦手な人には、代わりに細かい仕事をしてくれる誰かが必要です。
人の短所を補うため、あるいは長所をうまく活かすために、チームが存在するわけです。
その概念を突き詰めてできる「いいチーム」っていうのはどういうチームなのか。それが次のお話です。
いいチームの条件とは~協調性の有無は、実は関係ない~
いいチームとはどんなチームか。
上記の前提で考えると「個々が自分の長所を発揮できているチーム」これが一番なわけです。適材適所が実現されているときが、チームとして最大の力が発揮できているといえます。 それを最強のチームというわけです。どんなチームでも目指す地点はここです。
少し角度を変えてみましょう。
最高のチームの条件は、適材適所であること。この概念の中には「協調」という条件は、実は入りません。
「チームワーク」や「協調性」などの言葉が最高のチームの条件のように錯覚している人もいるかと思いますが、それらはあくまで適材適所の状態に持っていくための手段の一つにすぎないのです。
極端に言うと、適材適所の組織さえできていたら、協調性なんてどうでもいいわけなんです。
学生と社会人の「協調」の違い
さらに特筆しておくべきことがあるとしたら、「協調」とか「チームワーク」とかも学生と社会人では少しニュアンスが異なるような気がしています。
彼女が「協調して働きたい=チームで働く仕事がしたい」と曲解していたように「人の助けになる」というイメージもどこかずれているような気がしてきました。
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仕事上のチームプレーと、学生の部活の一番の違いはどこか。それは「助ける」という概念の違いではないかと思います。
学生の人間関係って、基本的に友達がメインです。友達となんでツルむの?と聞かれても「楽しいから」とか「なんとなく」とかそんな感じの答えしか得られないのではないでしょうか。
学生時代の人間関係は「繋がるための人間関係」。平たく言うと友達がほしいから繋がるんですよね。そうやってできた友達と何がしたい?とか聞かれても正直分からないと思います。
その人脈を使ってうんたらかんたらっていう概念はほとんどなくて、人間関係に対してそれほど多くのものは求めていないわけです。故に強いて言うなら「繋がる」ということが目的の人間関係、と個人的に呼んでいます。
しかし社会人の人間関係は違います。なぜ社会人が組織をつくるか。という理由は先述の通り「組織のほうが大きな成果が出せるから」です。つまり、繋がること自体が目的だった学生の人間関係と違って、目的があるからこそ人間関係を作る必要があるわけです。
それぞれ違う背景を持って、人間関係を組織しているということは「人を助ける」という概念に差異があっても不思議ではないんですよね。。
チームプレーとは、個人プレーの集合体
学生の言う「人を助ける」は、特に決まった形を取りません。ただ、右腕を怪我した人に対して手当てを施すような、「やってあげる」っぽい形を取ることが多い印象です。
相手ができないことを、すぐ隣に立ってやってあげる。みたいな感じですかね。みんなで一緒にやればいいじゃん的な考え方がある分「助ける」ということに関しても、距離が近いんですよね。うまく言えないけれど。
社会人の場合、学生よりも距離が離れます。
イメージするならば、野球です。確かに9人で一つのチームを結成しているのですが、打席に入るとき、打者は一人で投手に対峙します。ショートに転がったゴロはショートにしか捕れません。
社会人の「助ける」って、エラーが起こったとき「これ以上の惨事を防ぐためフォローする」というのと類義なんですよね。言うなれば、ショートが逸らしたボールをレフトがカバーする感じです。
フォローはしてくれても、エラーで出塁したランナーは残るし、信用も減る。どれだけレフトが名手であろうと関係ありません。だってショートゴロはショートにしか捕れませんから。
他人の仕事で出たミスを最小限の被害に食い止めることこそ「助ける」ということです。
逆にエラーの気配を察知して、とずっと傍に張り付いていられると「うぜえ!!」ってなります。よってたかって助けあうようなイメージをしているならば、全然違うだろうし、それぞれが独立した存在であることを前提としている分、人によっては淡白だと感じることもあるようです。
チームでやるような仕事でも、結局個人プレーの集合体をチームプレーとしているだけの話。学園祭みたいなイメージをしていたらしっぺ返し食らうぞ。
「チームで働く仕事」を軸にすると後悔する
何が言いたいかというと、仕事を選ぶ軸に「人間関係」を置いてしまうと後悔することになるかもよってこと。ここに書いたのは社会人の概念として当然のことで、自分でも「何を今更」って思いながら書いている記事だったりします。
それでも、話をしていた就活生はあまりピンときていないようでした。最終的に「そうなんかもしれんねー」と言っていたものの、それを実感するのは就職してからの話でしょう。
どんな仕事をするにしても、やっぱり職場の人間関係って大事です。けれど、それを指標にして、自分の進路を決めてしまうと、入社後ギャップを感じてしまうのがオチです。
どうせ「人の助けになること」の定義なんてどんどん変わっていきます。自分にとって「いいチーム」っていうのも変わります。今の価値観の中でそれらを求めていたとしても、その価値観をこれからの一年変わらずに持っているかどうかなんて分かりません。
「チームで働ける仕事がしたい」そう思う人。悪いこといわないからやめとけ。
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