鳥頭奮闘記

「3歩で忘れる鳥頭」と称された管理人が送る備忘記録。人生って常に修羅場。

なぜ人を殺してはいけないのか

 

とある機会に「いろいろ理屈を突き詰めていくと、人を殺してはいけない理由がなくなる」という言葉を聞きました。

 

結構前の話です。それから今まで、本当にそうだろうかとぐるぐる逡巡し、いい加減サイコパスっぽくなってきた鳥頭です。

ただでさえ「たまに目付きがアポトキシン4869を持ってる人っぽい」と揶揄される人種なのに、ガチモノのサイコパスになってまう!そんな危機感を覚えたので、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに決着を付けたいと思います。

先に断っておきますが、テーマがテーマだけに極論を書きます。話半分で読みすすめてくだしあ。

 

人を殺してはいけない理由なんてない

個人的な結論としては「人を殺してはいけない理由はない」と考えています。

 

「いきなりサイコじゃねーかよ、鳥頭。じゃあおまいさんはじゃんじゃん人を殺すのかい?」そう聞かれたとしたら答えはNo。殺しませんし、殺す予定もありません。

 

この現代社会では、人を殺すことによって負うリスクが大きいことが「人を殺す」ことの抑止力となっているようです。先にそのお話をします。 

 

 

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人を殺さないのは、殺した際のリスクを知っているから

人を殺すことで負うリスクとは大きく二つです。

 

一つは、社会的に罰を受けること。

これは法律で裁かれることです。法治国家として、法に背いたら罰せられます。その罰が抑止力になっているパターンです。

 

もう一つは、自分の身の安全が脅かされるリスクがあること。 

人を殺した場合、誰かから恨みを買い、復讐される可能性があります。目には目を、歯には歯を。殺人には殺人を。昔からそんな言葉があるように、人から猛烈に恨みを買うということ自体に、自分の命を脅かされるリスクがあります。

 

しかし、これは「人を殺してはいけない理由」ではないんですよね。

 

 

比較することで、人は人を殺すことを自制している

上記で説明した、法律や人の恨みを買うことは「人を殺してはいけない理由」ではなく、あくまで「人を殺すことを自制する理由」です。

 

要は「人を殺したらこんなに嫌なことがある。だから殺さない」という風に、「自分が殺したいやつが生きている嫌悪感」と「人を殺したら生じる嫌悪感」を天秤に掛けているわけです。その際に多くの人の天秤が前者に傾くように、法は作られています。

 

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 恨みを買うことに関しても、法のような明確な基準はないものの、人が育つ過程で「人を殺すほうがマシだ」と思わないように人は代々倫理観を受け継いできました。

 

法と倫理。この二つが重なって、今我々は当たり前のように「人を殺さない」という選択を取りつづけられるわけです。損得勘定や心理や感情、それぞれに「人を殺さない選択」を訴える、実によくできたシステムですね。

 

人を殺す権利とは

法と倫理。二つの双璧によって守られた「人を殺すことへの自制」。しかし、これにはある欠陥があります。

 

それは「人を殺さない」という選択を、常に比較によって選び続けているということです。

 

もっと端的に表現してみましょう。

「人を殺したらこんな罰をうけなくてはいけない」ということは「この罰を受けさえすれば、人を殺してもいい」ということです。

誰かに抱かれる恨みよりも、人を殺したい願望が大きくなった場合、人を殺すことを選択できるということです。

「人を殺したい願望」が抑止力になっていたはずの「罰や恨みなどの負の対価」を上回ったところにあるのは、「人を殺す権利」です。

 

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ずっと比較をし続ける中で、人間トチ狂って、本来とは逆方向に天秤が倒れることもあります。人間って極度のストレスだとか、時代とかにしょっちゅう狂わされます。間違った選択肢しか選べない状況って言うのは確かにあるんですよね。戦争中とかそれの最たるものだと思います。

 

冷静なときであれば当たり前にできる選択が、急にできなくなってしまうこと。うつ病だったり、神経症だったりで死を選ぶ選択と同じだと思います。間違っているとか正しいとか、冷静とかそうじゃないとか。そんな選択の余地がなくなってしまう状況はあってしまうんです。

それで一度生きることを放棄した人間ですからね、管理人も。この記事では詳しくは書きませんけど。

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殺人を犯さない理由は、その方が自分にとって有利だから

どれだけ法を厳しくしても、どれだけ倫理を徹底しても、我々が人を殺さないことを選択している限り、「人を殺したい願望」が「罰や恨みなどの人を殺すことへの自制」を上回ることがあるのも必然です。

 

「人を殺すことを自制する理由」が「人を殺してはいけない理由」に成り代わるためには、比較を介さずに「人を殺さない」という選択を取れるようにする必要があります。ただし、これを探すことは難しい。というかこれの答えが見つかったときが、世界から犯罪が消えるときだと思います。

 

それぐらいの極論。

 

やっぱりこれから先も、我々は比較の末に「人を殺さない方が有利だ」という結論を頑張って導き続けないといけないんです。

 

人に与えられた究極の自由「人を殺す権利」

こう考えると人を殺すという行為は、人間に許された究極の権利なんですよね。

 

自分自身をも破滅させる覚悟を持ってはじめて決行できる、権利。

 

禁断の果実とかパンドラのハコとかそんなレベルの権利です。でもそれを決行する自由はこの理屈で言えば認められてしまいます。自殺することに殺人罪が適応されないように、人の感情が取り締まれないように、これはどうしようもない類の「自由」にあたるものです。

 

前に書いた記事で「死ぬも生きるも自由」みたいなことを書いた気がしますが、それも行き着くところまで行き着くとこの結論に辿りつきます。「自由」は法にも倫理にも取り締まれない、ある種一番太刀の悪いものです。

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最初に書いた「人を殺してはいけない理由はない」というのは、言い換えると「人の行動は何にも制限を受けることがない」ってことが根っこにあります。

 

比較によって自制することで犯罪が横行することは防げるけれど、すべてのリスクを承知の上で起こされた行動ってどうしようもないんです。

 

自分の命をどう使うか。その決定権が自分に委ねられている以上、その行動を事後に裁くことは出来ても、事前に防ぐことは出来ません。復讐に生きる人が怖いのは、何を投げ打ってもそれを完遂する覚悟があるからです。自分を対価に「究極の自由」を行使する覚悟があるからこそ、怖いんです。

 

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こんだけごちゃごちゃと「人を殺してはいけない理由はない」と論じておきながら、鳥頭は「人を殺してはいけない」と思っています。「人を殺してはいけない理由がない」ことは「人を殺してもいい理由」にはなりません。

 

次、「なぜ人を殺してはいけないのか」についてです。

 

なぜ人は人を殺さないのか

なぜ人を殺してはいけないか。

この問いに答えるとしたら、管理人は「私がこれからも生きていくためだ 」と答えます。

・・・わけわかんないですか。そうですか。

 

これまで書いた理屈で言えば、「今、鳥頭が生きている」ことは「世界70億人の人が鳥頭を殺さない」という選択をしている裏返しでもあります。

死ぬ=殺されるっていう式も極論すぎますが、理屈を通すためにそれ以外の要素を無視して考えます。

 

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繰り返しますが、今鳥頭が生きているのは、鳥頭が聖人なわけでも、運がよかったわけでもなく、誰も「鳥頭を殺す」という選択をしなかったから、なんですね。

 

鳥頭が生まれてから25年間、70億人の人が誰一人として鳥頭に「殺す」という究極の権利を行使しなかった。その結果が今生きているという状態です。

 

この状態って多くの人に生かされている状態だと思うんです。

なんとなく言いたいことわかってきました?

 

人を殺さない理由は、これらも自分が生きていくため~核による平和と権利を使わないことによる自由~

人に生かされている自分って、変な感じだと思います。でも当たり前のように享受しているこの状態は、いろいろなバランスの元で成り立っている状態なんです。

 

時代という風に吹かれても傾くものだし、人間誰しも抱く不安定さのとばっちりを受けることもあります。生きていることが当たり前だと思うなら、あまりピンとこないでしょう。

 

でも、誰か一人でも「究極の権利」を行使したら、このバランスは成り立っていないわけです。これって実はすごいことなんだと思います。

 

生きている状態を作り出すバランス。その最高難易度のバランスを保つことに必要なこと。それはふたつしかありません。

 

一つは、比較によって人を殺さないことを選択している状態を終わらせること。これはすでに書きましたね。それが実現するならば、この世から犯罪はなくなるほどの極論です。かなしいかな、それは今の社会では実現不可能な方法でしょう。

 

だから、この「今生きている」バランスを維持するための方法って実質ひとつしかありません。

それは「みんなが究極の権利を行使しない」こと。

 

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核兵器保有国の言い分みたいですね。核を持っているからこそ核戦争は起こらないんだーっていう。あれと同じです。核の抑止力は核を使ったら霧散します。権利は持っていても使わないことに意味があります。

人も同じ。人が人を殺さないためには、人を殺す権利を行使しないという選択を全員が選び続けるしかないんです。

 

難しいことだと思います。先述の通り、人っていうのは常に正常な判断ができる生き物ではありませんから。それでも、あなたがここまで生きているのもまた、その最高難易度のバランスを世界中の人がなんとか維持してきた証とも言えます。

 

たくさんの人に生かされているんだから、そのことに感謝してーとか、あなたが今生きていること自体が奇跡なんだよーみたいな啓発的な話もあながち間違いではないんですよね。個人的には好きではないけれど。

 

ややこしい要素としては、「自分がこれからも生きていくために人を殺さない」という選択も、「人を殺さない理由」には成りえないということです。人の自由は法でも倫理でも制限できないですから。生きている限り、自分は誰かの人質であり、自分もたくさんの人を人質に取りながら生きているんです。そこに感謝とか奇跡とかキレイな言葉は似合わないと思います。

 

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「なぜ人を殺してはいけないの?」

「あなたがこれからも生きていくためだよ」 

それがたとえ、人質の取り合い状態を維持するものであったとしても。平和からかけ離れた考え方だとしても。

 

サイコパス鳥頭が出した結論はこうです。あなたはどう思いますか? 

 

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