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鳥頭奮闘記

「3歩で忘れる鳥頭」と称された管理人が送る備忘記録。人生って常に修羅場。

差別ってなんでしちゃいけないの?

 

先日こんな記事を読みました。

www.chishikiyoku.com

 

すごく考えさせられる内容でした。小学生の問いって世の中の前提を鋭く突いてくるからよくどきっとさせられるな。世の中を知らないからこそ「わかったふり」をしない、そんな存在の貴重さを感じる。

 

今回は「なんで差別してはいけないの?」という問いに関して、このブログでも考えていく。そんな記事です。頭の中とっちらかって読みにくい文章になっていると思われます。ご容赦くだしあ。。

 

差別とは

「差別ってなんでだめなの?」という問いに答えるに当たって、まずぶち当たった疑問は「差別とは何か」ということである。

 

とりあえずぐぐって見た結果がこれ。

「差をつけて扱うこと。わけへだて。区別すること。けじめ。」 

わかるような、わからないような。。受ける印象として「絶対的な悪」を表す言葉ではないんだろうな、と思わされる。何かしら理不尽なニュアンスはこの段階には含まれていない。単に分けて考えることをあらわしてる感じかな。

 

言及元の記事でもこんな感じで書かれていた。

まず、こんなことを言ってしまうとめちゃくちゃ叩かれそうだけど、差別が絶対的に駄目だ、っては言い切れないと思うんだ。

これには完全に同意。

 

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たとえば「犯罪」という単語はどう扱ってもネガティブな印象しか得られないけれど、「差別」という単語は「他社との差別化をはかる」みたく、ネガティブな印象を得る用途ばかりではない。

 

明らかにいい意味と悪い意味、使い分けられている言葉だ。 

 

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差別とは人にレッテルを貼ること

差別とはレッテルを貼る行為のことだと思う。出身地、人種、所属なんかで人にレッテルを貼り、勝手に人の評価に引用してしまうこと。

 「女だから」とか「中国人だから」とか「どこどこ出身だから」とかそういう理由で人の印象を決め付けてしまうこと、それが差別。

 

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しかし、それって誰もがやっていることではないだろうか。

 

「関西人はせっかち」「A型は几帳面」「都会の人は冷たい」

そうやって予め人を判別することは一種の防衛だ。未知のものに貼れるレッテルを探し出し、ある程度相手の出方を予想する。

 

さらに

「あの人はバツイチ」「あいつは大雑把なやつだから」「あの子は賢い」

このように人を一口に表現できるよう自分に落とし込むことで「捉えどころのない他人」から「自分のよく知る人物」として捉えることができる。それは「わからない不安」を緩和できる数少ない方法であると思う。

 

人間観察しても思うけど、やたらめったら他人にレッテルを貼りたがる人って対人関係に不安を感じていることが多いんだわな。他人の気にしない人ほど「わからない」状態に不安を感じないから、レッテルを貼る必要もない。

 

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話が逸れた。

 

差別とは、わからない不安から自分を守るため、他人に貼るレッテルのこと。

個人的にはこの定義がしっくりくるかなと思っている。

 

しかし、ただレッテルを貼ることが差別であるならば「差別してはいけません」ってのはなかなか酷な話だ。少なくともレッテルを貼ることを習慣的に行っている場合はそれを意識させることも大変だと思うし、その習慣が自分を守るためのものであるなら尚更。

 

さらにレッテルを貼る行為自体はネガティブなことにもなるけれど、ポジティブなレッテルを貼られることもあるわけ。その場合って果たして差別なの?といわれれば答えに窮する。相対的に逆の立場の人が貶められているのなら話は別なんだけど。そうでない場合もあるなら「差別ダメ、ぜったい」という包括的な言われ方はしないと思う。

 

「差別」を部分否定ではなく、全否定するにはそれなりに意味はあると思うのだけど。。

なんで差別ってだめっていわれるんだろう。

 

差別で本当に人は傷ついてるの?~差別ってなんでしちゃいけないの?~

差別がなんでだめなのか。この疑問について考えるうちに一つの仮説にたどり着いた。

 それは「差別」によって人は気分を害するのではなく、気分を害するレッテルのことを「差別」と呼んでいるだけではないかというものだ。

 

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差別がだめと言われる根拠を無意識に以下のように考えていた。

  1. 人を傷つけることはしてはいけない。
  2. 差別は人を傷つける。
  3. だから差別はいけない。

三段論法風。もしかしたら、すでにここから違うのではないかと考えた。

  1. 差別によって人を傷つけることがある。
  2. レッテルを貼られ、生き辛い思いをする人が他にもいるっぽい。
  3. 原因であるレッテルを「差別」と呼ぶことで環境を変えよう。

もしかしたら差別って、最初から差別として認識されるわけではなくて、結果として名付けられるものではないか。 

 

つまりは結果論である。被差別者が傷つくレッテルか否かが差別であるかどうかの分かれ目であって、人が傷つくことがないレッテルは差別だとは言われない。

 

差別が人を嫌な気分にさせるのではなくて、人が嫌な気分になるレッテルを差別と定義する。過去にそのレッテルを貼られた中で嫌な思いをした人が多かったものをとりあげて「女性差別」とか「人種差別」とか大きな括りとしたのだろう。

過去にこういうレッテルを貼られて傷つきました。これは差別です。以後なくしてください。と誰かが主張したものをそのまま次世代に受け継いでいるだけ。そんな気がする。

  

差別してはいけないって言えば言うほど差別意識は強くなる

そりゃ「差別だめ」って言われるわけですよね。「差別」=「嫌なこと」が一致する点にのみ焦点を当てている訳だから。 

 

「人が嫌がることをしない」という最終の目的があって、その手段のひとつが「差別をしない」こと。でも差別してきた側には何がそんなに嫌だったの?という点がはっきりとはわからないわけだから、差別されてきた人たちに「どんなことが嫌だったの?」と聞いたりする。そこで答えた内容を学校の人権学習の時間に「こんなことを言ってはいけませんよ」と教えられるという構図。

 

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これは差別の解消に必要なことなのだろうか。

差別意識をなくすことって、いうなれば人の嫌がることをしないことと同義と考えると難易度の高さがよくわかる。

 

人なんて、何を言っても傷つく人は傷つくし、いっそ何も言わなくても傷つく人だっている。そんな中「人が傷つくであろう言葉」をあえて言わないことにどれだけの効果があるのか。

 

差別をしないための活動が逆に差別を生み出してるんじゃないか。 

 

障害者と健常者の壁を取り払おうと奮闘している人ほど、障害者と健常者をわけて考えてしまうところがある。差別はいけないと考え訴える人ほど、差別の強く意識することになる。それは被差別者にとって本当にいいことなのかな。タイムリーに心に傷を負わないことと、健常者との違いを浮き彫りにされること、どちらが辛いのかな。 

 

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